コラム・レポート

仕事は「持ちつ持たれつ」の精神で(15)

仕事は「持ちつ持たれつ」の精神で(15)長谷川裕一(はせがわ・ひろかず)さんは1940年福岡県生まれ、1963年龍谷大学を卒業後、長谷川仏具店(1976年に現「はせがわ」に改称)に入社、1982年社長に就任し、1988年に福岡証券取引所、1994年に大阪証券取引所に上場、2008年4月に会長に就任している。

【暮らしの中の仏教・言の葉集】言葉は時代とともに変化するが、本来、前向きの意味だったものが、ある部分だけ「死語」となってしまい、マイナスの意味にとらえられるようになってしまった言葉があり、残念に思う。

私が子どものころは、世の中は「持ちつ持たれつ」だと折に触れて言われたものだ。「人間はひとりでは生きていけない、持ちつ持たれつだよ、利己主義はいかん、互助(ごじょ)の精神だよ」と。「持ちつ持たれつ」は倫理的に高い言葉、理想の言葉だった。

ところが、このごろは「持ちつ持たれつ」はマイナスの要素をもった言葉に転じられてしまっている。「持ちつ持たれつ」と同じような意味をもつ「縁起(えんぎ)」も、「縁起でもない」とか「縁起が悪い」いったように使われている。


「お釈迦(しゃか)様」と言えば尊い、敬(うやま)いの対象で、心のよりどころだったのに、「お釈迦になる(=ダメになる)」というように使われたり、「諸行無常(しょぎょうむじょう)」と言うと「はかない命」と思われたりする。「諸行無常」とは本来、一切は変化する、変化するからこそ未来があり希望があるということを指している。

「持ちつ持たれつ」=互助の精神とは共生、ともに生きていくことで、これは人と人とに限られたことではない。人と自然もまた「持ちつ持たれつ」であり、共生している。

すべてのものはつながっていて、決してひとつでは存在していないのだ。自分の命は自分の周りに生かされて存在しているのであって、我独りで存在はできない。「吸う息吐く息仏様」と言って、これは「みんな仏様に生かされている、尊い命をありがとう」という意味だ。

長谷川裕一さんが折に触れて半紙に書いているイラストや言葉があり、今回は「大志」を描いた。

「持ちつ持たれつ」は仕事の面、働くことで言えば「協働(きょうどう)」である。「協働」は古来から、日本の社会では当たり前のように行われてきた。縄文時代(1万6500年前から3000年前)以来、日本人の心の基本は「わ」=「輪」=「和」である。

「輪」は「わっか」でみんなが手を取り合った形のこと。「のぎへん」に「口」の「和」は稲を口に入れる、食べ物のことだ。したがって、「輪」は体を表わし、「和」は心を表わしていて、みんなで手を取り合えばみんなが食事をいただけるという意味になる。

弥生時代(縄文時代に続く時代でおよそ3000年前から300年前)には、村の長(おさ)の指導の元に、水を堰(せき)切って堤を造り、田んぼを造って、稲作が始まった。村人がそろって田植え歌を歌いながら、田んぼの田植えをしていく。まず人様の田んぼを田植えし、終わったら順番に自分の田んぼもみんなで一緒に耕す。

要するに、手抜きをしたら自分のところも手抜きされることになる。これも「持ちつ持たれつ」=協働だ。人様のところを良くして初めて、自分のところも良くなる。これが日本の原点なのだ。人を大切にすること、思いやりや優しさ、「持ちつ持たれつ」こそ、日本人の心である。

昔は、卑怯なことをするのがいちばん男らしくない、恥ずかしいことだった。弱い者いじめも男らしくない。弱い者は守る、そういう風潮でもあった。

私は先祖に上杉謙信(うえすぎ・けんしん、1530-1578)公とつながるものがある。そのため、子どものときから「敵に塩を送る」、戦いにも思いやりがあるのだという考え方のなかで育った。勝つためだったら何をやってもいい、そういうことは恥ずかしいことだ、と。

最近は、そうした考え方も薄らいでしまい、残念なことである(【暮らしの中の仏教・言の葉集】はお仏壇のはせがわの会長、長谷川裕一さんが日常生活の中の仏教などについて話したことをまとめています)。
はせがわ銀座本店

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